「書きすぎ」が文章を殺す。向田邦子『眠る盃』に学ぶ、引き算の美学
- 三輪大輔

- 2025年9月18日
- 読了時間: 4分
更新日:1月5日
仕事が立て込んでくると、自分の書いた文章しか読まない日が続く。最近はChatGPTを使い、客観的な意見や表現の助言を得る機会も増えた。しかし、文章の基礎をつくるのはあくまで自分だ。そのクオリティが確かなものでないと、ChatGPTの意味もない。
だけど、書き続けていると、何が正解か分からなくなり、次第に文章にしなやかさがなくなっていくのが分かる。がちがちに握ってしまった「おにぎり」のようだといえばいいのだろうか。本来はふっくらしていた方がおいしいはずなのに“握ること”に集中するあまり、結果的においしさを損ねてしまうのだ。
そのことに気づいたとき、どんなに忙しくても必ずやることがある。それが良い文章を読むことだ。僕自身が、雑誌の編集者をしていることもあり、普段は『Sports Graphic Number』や『週刊文春』『週刊新潮』といった雑誌を手に取ることが多い。だけど、時間があるときは向田邦子さんと沢木耕太郎さんの書籍に戻るようにしている。この二人は、私が「書く仕事をしたい」と考えるようになった原点だ。沢木耕太郎さんによってライターという仕事に憧れ、向田邦子さんによって書いて伝えることの奥深さを知った。そう言って差し支えない。
中でも、向田邦子の『眠る盃』(講談社文庫)は大好きな一冊だ。つい最近も読み返した。エッセイ集であるため、最初から通して読むのではなく、ぱらぱらとページをめくり、目についたものを拾い読む。二、三十分もすれば、不思議と感覚が戻ってくる。多少大袈裟ではあるが、文章の細胞が蘇るような感覚があるのだ。
本書の中でも、とりわけ印象深いのが『字のないはがき』だ。今は教科書にも掲載されているらしいので、知っている人も多いだろう。僕が初めて読んだのは大学生の頃で、通っていた編集スクールで紹介されたのがきっかけだった。そのときに受けた新鮮な驚きはいまも色褪せていない。
『字のないはがき』は、文庫本でわずか四ページほどと短い。しかし、その中には「文章とは何か」というイロハが全て詰まっている。構成はもちろん、視点の置き方、言葉の選び方、余白の使い方など、短い文章だからこそ一つひとつが際立つ。これを読めば、文章が「足し算」ではなく「引き算」で成り立っていることが、腑に落ちるだろう。
『字のないはがき』に象徴されるように、向田邦子さんのすばらしさは、対象との距離感と、そこで紡がれる言葉にある。舞台が戦時中で、家族も戦争に直接巻き込まれている状況であれば、反戦の言葉の一つでも書きたくなるかもしれない。しかし、そうした言葉は一つも用いられない。それにもかかわらず、戦争の悲惨さは、読む側にひしひしと伝わってくる。
家族愛の描き方も同様だ。前半と後半、二つのエピソードで構成されているが、どちらも「父が見せた意外な一面」という同じテーマを持つ。強烈なキャラクターを持つ父親が亡くなった後に書かれているにもかかわらず、声高に愛情が語られているわけではない。それでも、読み終えたあと、胸の奥に静かな余韻が残る。もっと感傷的に書くこともできただろうが、あえてそうしなかった点に、この作品の強度がある。
どこか一つでも言葉を誤れば、この文章は成立しなかっただろう。一歩踏み出せば、すべてが台無しになりかねない。そんなぎりぎりの綱渡りの上を行く。それを見事に成し遂げているからこそ、この作品は、うつくしい芸術と呼べる境地に達している。
この「対象との距離感」は、沢木耕太郎のノンフィクションにも通じる。距離が近すぎれば感情が前に出て、遠すぎれば陳腐になる。その絶妙なバランス感覚は、もはや天性のものとしか言いようがない。
話が少し逸れたが、結局のところ、文章で最も重要なのは対象との距離感である。締切に追われると、焦りが先に立ち、その距離は一気に縮まりすぎてしまう。だからこそ、一息入れる間をおき、文章から離れて良い文章を読む。すると、不思議なことにバランスが戻り、言葉は収まるべき場所に静かに収まっていく。
ただ、文章ではなく、テレビに手が伸びてしまうことも多い。そのときは気分転換のつもりでテレビを見すぎ、再び焦り出す。そんな懲りない日々を、今日も変わらず過ごしている。



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