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1996〜1999年、日本のロックバンドはなぜヘビーになったのか【前編】

  • 執筆者の写真: 三輪大輔
    三輪大輔
  • 2025年10月9日
  • 読了時間: 5分

1999年。当時、高校2年生だった僕は、正直戸惑っていた。このアルバムは、どう聴けばいいのだろうか。


先行シングルはキャッチーだった。ラジオでも流れていたし、実際にCDも買っていた。ところが、発売されたアルバムを通して聴いてみると、どこか様子が違う。曲が進むにつれ、胸に溜まっていくのは高揚感ではなく、重さだった。


ヒット曲はあるのに、アルバムが重すぎた理由

戸惑いの正体は、アルバムそのものにあった。B’zの『Brotherhood』、Mr.Childrenの『DISCOVERY』、そしてGLAYの『HEAVY GAUGE』。それぞれのアルバムには『ギリギリCHOP』『終わりなき旅』『Winter, again』といった、バンドを代表する曲がしっかり収録されている。にもかかわらず、アルバム全体を覆っている空気は、どこかダウナーで、重い。


これまでの彼らのPOPさに油断して、無邪気に触ったら指先が深く切れるような荒々しさ。アーティストが抱える精神の軋みが、そのまま剥き出しの音像となって現れている。高2の自分にとっては、少しヘビーすぎた。


当時は言葉にできなかったが、いま思えば、僕はその時点で時代の移り変わりを肌で感じていたのだと思う。実際、その頃には宇多田ヒカルの『First Love』が発売され、歴史的なヒットを記録していた。バンドが音楽シーンの中心にいた時代は、静かに終わりを迎えつつあった。2000年を超える頃には、活動休止や解散を選ぶバンドも、少しずつ増えていく。


1997年、すでに異変は始まっていた

1999年、確実に日本のロックシーンが変わろうとしていた。あの時は、わからなかった。しかし、その前兆は、すでに1997年に現れていたのかもしれない。


1997年。僕が中学3年生だったこの年、日本のロックシーンの最前線にいた二つのバンドが、一足先にその「無理」に気づき、自ら舵を切っていた。そのバンドこそ、THE YELLOW MONKEYとLUNA SEAだ。


THE YELLOW MONKEYは、音で拒否した

当時、THE YELLOW MONKEYが発売したアルバムが『SICKS』だ。シングル曲は「楽園」のみ。バンドを代表するヒット曲である『JAM』や『SPARK』は収録されていない。バンドも勢いに乗っており、CDバブルの真っ只中だったので、それらを収録したアルバムを出せば、ミリオンセラーも確実だっただろう。


しかし、彼らはそうしなかった。レコード会社を移籍した直後というタイミングもあったが、それ以上に、彼らは「ヒット曲の寄せ集め」ではなく、自分たちが本当に鳴らしたい音を優先した。それはアーティストの生存本能だったのかもしれない。肥大化し、消費されていく日本のロックシーンに対する、強烈なカウンターを放たないと、飲み込まれてしまう。そうした危機感もあり、『SICKS』は時代を超えて聴かれるアルバムになった。この一枚がなければ、今のTHE YELLOW MONKEYは存在しなかっただろう。今なら、そう断言できる。1997年にこのアルバムを出していなかったら、バンドは消費されて終わっていた可能性もゼロではない。


ただ、当時の僕には、それが分からなかった。求めていたのは、『JAM』や『SPARK』のような、あるいは『FOUR SEASONS』に収録されているようなキャッチーで分かりやすいロックだったからだ。中学生の自分にとって、『SICKS』はあまりに重く、不親切な作品だった。


LUNA SEAは、行動で答えを出した

一方で、LUNA SEAは、音ではなく行動で答えを出した。『MOTHER』と『STYLE』という日本のロック史に燦然と輝く二枚のアルバムを発表した直後、彼らは突如、ソロ活動へと突入する。『STYLE』はオリコン1位を獲得し、東京ドーム公演も即日完売。人気も動員もまさに絶頂で、LUNA SEAは名実ともに時代の頂点に立つバンドだった。もし、その年にアルバムを出していたら、ミリオンヒットになっていただろう。それでも、彼らは立ち止まった。


理由はシンプルだが、重い。LUNA SEAには明確なリーダーが存在しない。どのバンドよりも個が際立った五人が集まった「究極の共同体」だったからこそ、彼らはバンドであり続けることそのものに、誰よりも早く危機感を覚えたのだ。個の表現が成熟しすぎた結果、「LUNA SEA」という器が、次第に窮屈になっていく。その違和感を曖昧に放置するのではなく、彼らは一度、バンドという形を解体する道を選んだ。それは迷走でも逃避ではなく、バンドが巨大なシステムとして消費されていくことへの、極めて冷静な拒絶だったといっていい。


さらに遡る伏線──1996年の『深海』

実は、この流れにはさらなる伏線がある。それが1996年にMr.Childrenが放ったアルバム『深海』だ。90年代後半に続く、ヘビーなアルバム群の原点といっていいかもしれない。しかし、その重さは日本のロックシーン全体へのカウンターや、音楽産業の構造に対する抵抗とは、少し性質が違う。『深海』で前面に出ていたのは、桜井和寿という一人の表現者が限界に達した、その内面だった。


「Tomorrow never knows」でダブルミリオンを達成し、「名もなき詩」で史上初の初週売上100万枚超えを叩き出すなど、まさに国民的バンドの頂点に立った彼ら。しかし、彼らはその華やかなパブリックイメージから逃れるように背を向け、暗く湿った深海へと潜っていった。


アルバムん二曲目の「シーラカンス」で鳴らされた、あの毛羽立ったシャギーな音像は、当時、世界的な閉塞感を描き出そうとしていたレディオヘッドの音とも共鳴していた。精神的な限界を迎え、桜井和寿が文字通り「命を削って」鳴らしたあの音は、日本のロックが直面する危機の、最初の一撃だったといっていいだろう。


こうした伏線を抱えたまま、1999年、日本のロックは極限まで重くなっていく。その先に何が起きたのか。次回、掘り下げたい。

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