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【楽曲レビュー】失くしたのは景色だけ。伯父の迎え火と「NとLの野球帽」

  • 執筆者の写真: 三輪大輔
    三輪大輔
  • 3月17日
  • 読了時間: 6分

更新日:1 日前

                三輪大輔|外食ビジネスアナリスト


記憶の中の伯父と、重なり合う視線

その当時、この曲を聴いていたわけではない。それでも、この曲を聴くと、なぜか2022年に亡くなった伯父のことを思い出す。かつての父と母、そして幼い自分という三人の時間を見つめる主人公の視点。その主人公に、どこかで伯父の姿を重ねていたのかもしれない。親父とおふくろに対する描写から滲む不器用な愛情が、伯父に似ていたのだろう。


伯父は、70歳で亡くなるまで生涯未婚だったため、3DKの団地の5階で、ずっと祖母と二人で暮らしていた。若い頃に縁談がなかったわけではない。親戚としての多少贔屓目もあるだろう。ただ180センチ近い高身長で、腕利の植木職人として知られていたので、好意を寄せる女性がいなかったとは考えられない。それでも結婚には至らなかった。結局のところ、結婚は縁とタイミングが大切なのだ。


だからこそ、自分にとって、伯父と祖母はいつもセットの存在だった。しかし、祖母が認知症を患い、施設に入ってからは、伯父は一人暮らしになってしまう。それまで当たり前にあった日常が崩れ、特に苦労したのが食事だったと聞く。母や伯母が支えながら、なんとか日々をつないでいた。伯父は祖母を支えていたと思っていたが、実は、祖母がいないとだめなのは自分だったのかもしれない。


人は歳をとり、老いていく。若かった頃の姿を知っているからこそ、その変化は強く胸に残る。けれど同時に、人生とは何かを、静かに教えられたようにも感じる。


「NとLの野球帽」が描く、過去と現在

伯父の話が長くなった。その記憶と重なる楽曲こそ、CHAGE and ASKAの『NとLの野球帽』だ。この曲は、1996年2月に発売された『river』のB面であり、CHAGE自身の幼少期をモチーフに描かれている。舞台は1969年、北九州市・小倉。タイトルのNとLは「西鉄ライオンズ」のことを指している。


楽曲では、幼少期と現在の不甲斐ない主人公が交錯する。印象的なのが、壁に飾られた一枚の写真だ。そこには、幼い頃の自分が笑って写っている。主人公は、そのときシャッターを切った親父の姿を覚えている。そして、不器用そうなその背中を、見つめていたおふくろの姿も。そうした何気ない情景が、「愛するものが近くにあった」という一節として、静かに立ち上がる。


もしこのフレーズだけで終わっていたなら、過去はすでに切り離された時間として、今とは地続きではないものになってしまう。戻ることのできない場所として、ただ遠ざかっていく。しかし、この曲はそこで終わらない。


「光の中を生きてきた」という言葉

キーワードは、二度繰り返される「光の中を生きてきた」という言葉だ。一度目は、NとLの野球帽をかぶり、野球に熱中する幼少期の情景の後で現れる。そして二度目は、壮大な時間の積み重ねを受け止めるラスト前だ。「失くしたものは景色だけさ」という言葉とともに。


変わったのは景色だけ。あのとき確かにあった温かな関係も、過ごした時間も、決して失われたわけではない。自分は、光の中を生きてきた。その事実だけが、主人公に、前へ踏み出すための静かな強さを与えている。


1969年、CHAGEは11歳だった。子どもから大人へと向かう、境目の時間。引っ越しという環境の変化も重なり、それはひとつの転換点でもあった。いわば、最後のきらめきのような瞬間である。自分にとって、それは1993年になるのだろう。そして伯父にとってもまた、確かにそう呼べる時間があったはずだ。


夏休みの福岡と、伯父の存在

神奈川県に住んでいた僕は、夏休みになると、母の実家がある福岡に帰るのが定番だった。いわば福岡は、楽しい夏休みそのものを象徴する場所だったといっていい。その時間をより特別なものにしていたのが、無責任な小学生だった自分のわがままを、何でも受け止めてくれる伯父の存在だった。


1993年。僕は11歳、小学5年生だった。なぜあの時間が、これほどまでに鮮やかに残っているのか。小学校6年の夏、引っ越しによって帰省は途絶える。行き先は、奇しくも小倉。CHAGEが生まれ育った場所でもある。その境目を越えたあと、自分は、いわば大人への階段を上り始めていく。無邪気な子ども時代には、もう戻れない。新しい学校に馴染めず、陽気だった性格も、次第に内側へと向いていった。だからこそ、あの時間は、最後のきらめきとして記憶に残っているのだろう。そして、その中心には伯父がいた。


伯父にとっても、あの時間は黄金時代だったのではないだろうか。祖母と伯父が暮らす家には、祖父の仏壇が置かれていた。お盆の時期になると、親戚が一堂に会する。伯母、もう一人の伯父、親戚のお兄さん、従姉妹。正直、どういう関係なのかよくわからない人もいた気がする。それでも、ひとたび集まれば、昔話に花が咲き、生粋の博多弁が飛び交う。喧嘩なのか、戯れ合っているのかもわからない。それでも、とにかく楽しそうで、父も母も、普段は見せないような表情で笑っている。あれは、大人たちにとっての青春の時間だったのかもしれない。


祖父を迎える火

その中でも印象的なのが、墓参りだ。「おがら」に火をつけ、13日の夕方に霊を迎える、いわゆる迎え火である。僕は、その意味や作法を伯父から教わった。伯父は、大切な人に触れるかのように、静かに、丁寧に火をつけていた。そして、その火を手に、ゆっくりと家へ向かう。「じいちゃんがうちを分からんくなったら、かわいそうばい」。迎え火を持つその時間、伯父は祖父と並んで歩いていたのだろう。


実際、祖父のことをいちばん生き生きと語っていたのは、いつも伯父だった。祖父は、僕が生まれた頃にはすでに亡くなっていたため、どんな人だったのかはわからない。ただ、陽気で、家族思いの人だったのだろうと思う。伯父の話を通して、そんな人物像が自然と浮かび上がってくる。植木職人だったこと。少しお調子者だったこと。そして戦争のときには、矢が刺さったまま逃げ、九死に一生を得たという話。伯父は心霊の話も好きだったので、どこまでが本当でどこからが作り話なのか、よくわからない話も混ざっていた。「火の玉を見た」というのは、その中でも定番だった。ただ真偽はどうでもいい。伯父が信じているのなら、それはたしかに“あったこと”なのだ。


失くしたのは景色だけ

1993年、みんな若かった。父も母も、そして伯父も、いまの自分よりずっと年下だった。あまりにも生き生きとしていて、あの場所は幻ではなく、少し手を伸ばせばそのまま帰れそうな気さえする。幸福とは、きっとあの時間のことを指すのだ。その後の、それぞれの運命を思うと、その感覚はいっそう強くなる。みんな、確かに光の中にいたのだ、と。


今は伯父もいないし、祖母も亡くなり、あの場所も、もうない。2022年3月、祖母が亡くなったとき、伯父にはそのことを伝えていなかったという。当時、伯父は入院しており、体調もあまり良くなかった。母と伯母なりの配慮だったのだろう。それでも不思議なことに、伯父もまた、その二週間後にこの世を去った。まるで、祖母に呼ばれるように。話半分に聞いていたことだが、そうした出来事は、本当にあるのかもしれない。そして、そう思っていたほうが、少しだけ救われることもある。


失くしたものは景色だけさ。

あの温かな時間は、いまも自分の心の中にあり、人生を確かに豊かなものにしている。もしかしたら、伯父も祖母も祖父も、いまも胸の内で語りかけ続けているのかもしれない。「NとLの野球帽」は、そのことを静かに教えてくれる楽曲なのだ。



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