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1996〜1999年、日本のロックバンドはなぜヘビーになったのか【後編】

  • 執筆者の写真: 三輪大輔
    三輪大輔
  • 1月27日
  • 読了時間: 10分

更新日:10 時間前

CDバブル、タイアップ、ベスト盤という三重構造

1996〜1999年、日本のロックバンドはなぜヘビーになったのか【前編】」では、B’z『Brotherhood』、Mr.Children『DISCOVERY』、そしてGLAY『HEAVY GAUGE』という三枚のアルバムを手がかりに、なぜ1999年、日本のロックバンドのアルバムが極限まで「重く」なったのかを整理した。


その重さは決して突発的なものではない。1996年のMr.Children『深海』、1997年のTHE YELLOW MONKEY『SICKS』、そしてLUNA SEAのソロ活動突入という、いくつもの伏線が積み重なった末に、1999年という年に一気に噴き出した現象であることを確認してきた。


今回は、その「なぜ」に、より踏み込んでいきたい。当時は戸惑いをもって受け止められたこれらのアルバムも、いま振り返れば、なぜ彼らがこの時期に、あえて重い作品を世に出したのかが見えてくる。その背景には、アーティスト個人の内面だけでは説明しきれない、構造的な要因があった。鍵となるのはCDバブル、タイアップ構造、そしてベスト盤ブームだ。


① CDバブル。「出せば売れる」という異常な成功

日本のCD市場は、1998年にピークを迎えた。ミリオンヒットが最も多く生まれた年であり、その数は14作に及ぶ。文字通り、「出せば売れる」時代だったといっていい。


仕掛けられたライバル構造:GLAY vs L'Arc〜en〜Ciel

その象徴が、GLAYである。1998年の年間シングル1位は『誘惑』。同時発売された『SOUL LOVE』も年間5位に入った。さらにその後も『BE WITH YOU』、そして3か月後には『Winter, again』と、立て続けにリリースを重ねていく。1997年8月に発売され『However』から数えて、シングルは5作連続でミリオンを達成した。


それを上回るリリースを重ね、ヒット作を量産したのがL’Arc〜en〜Cielだ。1997年2月、ドラムのSAKURAの逮捕を受けて一時活動休止状態となった後、同年10月に『虹』をリリース。翌1998年には、『winter fall』を皮切りに、『DIVE TO BLUE』『HONEY』『花葬』『浸食 〜lose control〜』『snow drop』『forbidden lover』と、1年で7作ものシングルを世に送り出した。


このうち『HONEY』『花葬』『浸食 〜lose control〜』は同時発売、『snow drop』『forbidden lover』は2週連続発売という、いま振り返れば異常としか言いようのないスケジュールである。それでも、『HONEY」と『花葬」はミリオンセラーを記録した。


この離れ業を可能にしたのが、L’Arc〜en〜Cielというメンバーレベルの高さである点は、無視できない。hyde、ken、tetsuya、yukihiro。と、バンド内に複数の優秀なコンポーサーを抱えていたからこそ、これほどのリリースラッシュとクオリティの両立が実現した。音楽的なバックグランドが異なる四人がここに生み出す楽曲群で、L’Arc〜en〜Cielの音楽的な世界観は一気に広がっていく。この振れ幅の大きさこそが、コアなリスナーだけでなく、お茶の間レベルの支持を獲得できた最大の要因だった。


話を市場構造に戻そう。両者の売上推移からも分かる通り、当時の市場では、GLAYとL’Arc〜en〜Cielは明確なライバル関係として提示されていた。その構図を仕掛けたのが、当時博報堂に在籍していた広告プランナーの箭内道彦氏だ。GLAYが2作同時発売を行えば、L’Arc〜en〜Cielは3作同時で応じる。そうした競争原理が、プロモーション戦略として意図的に仕掛けられていた。


その結果、曲は「作品」である前に、「商品」として消費される速度を、異常なレベルまで早めていく。楽曲は次々と制作され、ヒットし、消費される。作り手のスピードが、感情や思想を整理する速度を完全に追い越していた。この過剰な成功が、アーティストの内部に、言語化されない歪みを静かに溜め込んでいく。


②タイアップ。社会に「求められる音楽」

当時、ヒット曲といえば、ドラマやCM、映画のタイアップから生まれるものだった。とりわけ90年代前半は、いわゆるトレンディ・ドラマブームの真っただ中にあり、ドラマ主題歌がそのまま国民的ヒットになる流れが一般化していた。


・1991年

CHAGE&ASKA『SAY YES』月9ドラマ『101回目のプロポーズ』主題歌

小田和正『ラブ・ストーリーは突然に』ドラマ『東京ラブストーリー』主題歌


・1992年

米米CLUB『君がいるだけで』

ドラマ『素顔のままで』主題歌

浜田省吾『悲しみは雪のように』ドラマ『愛という名のもとに』主題歌

サザンオールスターズ『涙のキッス』ドラマ『ずっとあなたが好きだった』主題歌


・1993年

CHAGE&ASKA『YAH YAH YAH』ドラマ『振り返れば奴がいる』主題歌

藤井フミヤ『TRUE LOVE』ドラマ『あすなろ白書』主題歌

サザンオールスターズ『エロティカ・セブン』ドラマ『悪魔のKISS』主題歌


この流れを決定づけた存在として、まず挙げるべきなのがCHAGE&ASKAだろう。1991年、月9ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌として発表された『SAY YES』は、CHAGE&ASKAにとって初のミリオンセラーとなり、オリコンチャートでは13週連続1位を記録した。最終的にはダブルミリオンに到達。さらに1993年には、ドラマ『振り返れば奴がいる』の主題歌として『YAH YAH YAH』を発表。この曲もダブルミリオンを記録し、同一アーティストによるシングル2作のダブルミリオン達成は、オリコン史上初という快挙となった。


もっとも、1991年という年に限って言えば、CHAGE&ASKAを上回るヒットを記録した楽曲が存在する。それが、ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として起用された、小田和正の『ラブ・ストーリーは突然に』だ。この曲が生まれる前、別の楽曲が主題歌として提案されていたが、当初はプロデューサーから「ドラマに合わない」と判断されて没になったという有名なエピソードがある。その判断に触発され、アーティスト魂を刺激された小田が次に差し出したのが『ラブ・ストーリーは突然に』だった。こうして完成した『ラブ・ストーリーは突然に』は、物語の内容と完全に共鳴し、結果として1991年の年間ランキング1位を獲得する。


つまり、CHAGE&ASKAと小田和正が、ドラマタイアップが国民的ヒットへと直結するという「成功の型」を最初に完成させた存在だったと言っていいだろう。そして、この流れを決定的なものへと拡張した存在として、サザンオールスターズにも触れておきたい。サザンオールスターズは、1992年放送のドラマ『ずっとあなたが好きだった』に『涙のキッス』を提供し、バンド初となるミリオンヒットを記録する。さらに翌年には、ドラマ『悪魔のKISS』の主題歌として『エロティカ・セブン』を発表し、188万枚を売り上げ、再びミリオンセラーを達成した。


ここで重要なのは、CHAGE&ASKAとサザンオールスターズに共通していた立ち位置である。両者とも、ドラマ主題歌を担当する以前から高い人気を持ち、ライブの動員力も十分にあった。質の高い楽曲も数多く生み出していたが、それらが必ずしも数字に結びついていたわけではない。しかし、ドラマ主題歌が国民的ヒットとなることで、それまで蓄積されていた評価と経歴が新たな意味を持ち、アーティストとしての格が引き上げられていく。その結果、バンドの飛躍は決定的に加速する。


「成功の型」を完成させたMr.Childrenという存在

この完成された流れに乗り、90年代半ば、モンスターバンドへと一気に駆け上がっていったのが、Mr.Childrenに他ならない。


最初に掴んだ決定打が、1994年放送のドラマ『若者のすべて』の主題歌『Tomorrow never knows』だ。売上は約276.6万枚を記録し、Mr.Childrenのシングルとして最大のヒットとなった。 続く1996年には、ドラマ『ピュア』の主題歌として『名もなき詩』を発表。この曲は、ドラマの脚本を読み込み、物語に寄り添う形で制作されたことでも知られている。同様の手法は、1993年放送のドラマ『同窓会』の主題歌『CROSS ROAD』でもすでに用いられていた。桜井和寿のソングライティング能力の高さが、ドラマを彩る主題歌を強く求めていた時代と、見事に呼応したといっていい。


この成功以降、Mr.Childrenは『花 -Mémento-Mori-』まで、シングル8作連続でミリオンヒットを記録する。とりわけ『Tomorrow never knows』と『名もなき詩』はいずれもダブルミリオンを達成し、Mr.Childrenのパブリックイメージを決定づける存在となっていった。


しかし、この成功は同時に、バンドに新たな制約をもたらす。タイアップは単なる「宣伝の場」ではなく、「その作品にふさわしい曲」を求められる場へと変質していく。結果として、バンドが作りたい音楽と、求められる音楽のあいだに生じる乖離は、次第に広がっていった。


③ ベスト盤ブーム。曲単位での消費

先ほど、1998年に日本のCD市場が、ミリオンセラーが14作も生まれるほどのピークを迎えていたことに触れた。この現象はシングルに限った話ではない。むしろ、アルバム市場の方が、より異常な活況を呈していたといっていい。


実際、アルバムの年間最高売上は、4年連続で更新されている。その起点となったのが、1996年に発売されたglobeのファーストアルバム『globe』だ。『globe』は、当時オリコン史上初となるアルバムセールス400万枚を突破し、「アルバムはここまで売れる」という基準を一気に押し上げた。翌1997年には、GLAYのベストアルバム『REVIEW』が約487万枚を記録。これを契機にベスト盤ブームが本格化し、その熱は1998年にピークを迎える。象徴的なのが、B’zが1998年に発表した2枚のベストアルバム『B'z The Best "Pleasure"』と『B'z The Best "Treasure"』だ前者は513万枚、後者は443万枚を売り上げ、2作合計で1000万枚近いセールスを叩き出した。


同時期には、サザンオールスターズの『海のYeah!!』が346万枚、松任谷由実の『Neue Musik』が325万枚、安室奈美恵の『181920』が169万枚と、アルバムは文字通り、売れに売れていた。


「ヒット曲の寄せ集め」という違和感

ただ、ここで起きていたのは、単なる好況ではない。アーティストが「アルバム」ではなく、「ヒット曲の集合体」として切り売りされていく感覚である。バンドにとっては、自分たちはどこまで行っても「ヒット曲の寄せ集め」なのかという違和感が、確実に生まれていたはずだ。


ポップで分かりやすい楽曲は、すでに社会に回収されている。ヒット曲はタイアップとともに消費され、役割を背負わされていく。その反動として、これは切り売りできない。これはまとめて聴くしかない。これは自分たちの音楽だ。そうした意思が、重く、逃げ場のない音像として表出していった。それがGLAY『HEAVY GAUGEであり、Mr.Childrenの『DISCOVERY』であり、そしてだ。B’zの『Brotherhood』だ。それぞれCDバブル、タイアップ、ベスト盤ブームの先頭を直走ってきたバンドたちの時代への挑戦状だったといっていいだろう。


宴の終わりと、歴史が切り替わった瞬間

4年連続で更新されてきたアルバムの年間最高売上。その到達点となったのが1999年である。この年、宇多田ヒカルが発表した『First Love』は、約765万枚という爆発的なセールスを記録し、前年に発売された『B'z The Best "Pleasure"』の513万枚を大きく上回った。この瞬間、文字通り歴史が切り替わった。バンドを中心に回っていた時代は終わり、J-POPは次のフェーズへと移行していく。バンドブームは、ここで静かに幕を下ろしたといっていい。


おそらく多くのバンドは、この転換点の到来を、うすうす予期していたのではないだろうか。レコード会社や事務所の論理とは別に、「自分たちの音楽性を掘り下げなければ、次はない」という感覚を、現場の人間ほど強く抱いていたはずだ。1999年前後に生まれたヘビーなアルバム群は、単なる作風の変化ではない。それは、自分たちの音楽と真正面から向き合い、バンドとして何を残すのかを問い直すためのアプローチであり、同時に芸術性を高めようとする運動でもあった。


ここで、時代の空気をいち早く体現していた存在として、THE YELLOW MONKEYとLUNA SEAに触れておきたい。両バンドとも、1998年に重要なアルバムを発表している。

LUNA SEAは1998年に『SHINE』をリリースした。SUGIZOが後に「もっとグルーヴが生まれる余地があった」と語っているように、この作品にはどこか不完全燃焼の感触が残る。


一方、THE YELLOW MONKEYも同年に『PUNCH DRUNKARD』を発表する。『球根』『BURN』『LOVE LOVE SHOW』といったヒット曲を含み、前作同様ロンドンで制作されたアルバムだったが、決定的な「マジック」は起きず、バンド自身も迷走の只中にあった。


ベスト盤ブームの渦中で、極めて特異な形で生まれたアルバムもある。それが、1999年にL’Arc〜en〜Cielが同時発売した『ark』と『ray』だ。1998年にシングル3枚同時リリースという前代未聞の施策を行った彼らは、翌年、アルバム2枚同時発売という離れ業を成し遂げる。売上は『ark』が231万枚、『ray』が217万枚。もし一枚のアルバムとしてまとめられていたなら、評価はまったく違ったものになっていただろう。


この二作には、『DIVE TO BLUE』『HONEY』『snow drop』『Driver's High』といった華やかなシングル曲に隠れて、「いばらの涙」「死の灰」「Cradle」「真実と幻想と」など、重い楽曲が数多く収録されている。その流れは、後のアルバム『REAL』で完全に結実していく。


似た構造のアルバムは、すでに1997年に発表されていた。それが、Mr.Childrenの『BOLERO』である。売上は328万枚。『Tomorrow never knows』『シーソーゲーム~勇敢な恋の歌~』『【es】~Theme of es~』『everybody goes』『Everything (It’s you)』という5枚のミリオンヒットシングルを含みながら、アルバム曲には『ALIVE』『Brandnew my lover』『ボレロ』といった、極めて暗く内省的な楽曲が並ぶ。


結論:重くならざるを得なかった必然

1996〜1999年、日本のロックバンドはなぜヘビーになったのか。それは、CDバブル、タイアップ、ベスト盤という三重構造が複雑に絡み合い、音楽があまりにも軽やかに消費されていく時代だったからに他ならない。


切り売りされない音楽を、まとめて聴くしかない音楽を、ファンにきちんと手渡すには、アルバムという形式にすべてを背負わせるしかなかった。やがてCDの売上が鈍化し、ライブ重視の時代へと移行していく流れを見据えれば、この選択は、結果論ではなく必然だったともいえる。


当時の僕には、それが分からなかった。だが、分からなくて当然だったのだと思う。高校生が求めていたのは、世界の構造を説明する音楽ではない。明日を越えるための、たった一曲だった。しかし、バンドたちは、その一段先を背負わされてしまった。時代の終わりと、次の始まりを、アルバムという形で引き受けてしまったのだ。1999年、日本のロックアルバムは重くなったのではない。重くならざるを得なかったのである。




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